その10


アウカンは黙ったまま、マハーバラの穏やかな死に顔を眺めていた。


何故こんな事をしたのだ、


ここは俺の死に場所だったのだ。


イードはともかく、お前が死ぬ場所ではなかった筈だ。


どうして俺の傷を癒す事などに命を投げ出したのだ。


まるで理解が出来なかった。

敵を前に呆然と立ち竦むアウカンの耳に

いさおしの主が控え目に嘶く声が届いた。


頭を上げると、その鞍頭にぐったりと倒れ掛かった騎士の姿が目に入った。


唐突に全てが理解できた。

この若い騎士の上に背負わされた運命も。

マハーバラがもう一度自分を戦わせようとした意味も。


「わかった」


噛み締める様に、アウカンの咽喉から言葉がこぼれた。

そして、意識があるのかすら判別できぬギリオンの、黄金の仮面に覆われた顔を眺め、それから主を労るかのように戦場に
留まり続けているいさおしの主の目を覗き込んだ。


いさおしの主は賢い馬である。
同じ厩舎で生まれた兄弟馬達は皆名馬の誉れ高く、功成りとげた騎士や貴人の乗騎として名を馳せた。

騎馬競技の歴史にその名を残したものもいる。

その兄弟達の誰よりも賢く、勇猛で忠実な馬であった。

運命の導きでギリオン卿と出会ってからまだ日は浅いが、自らが認めぬ主をその背に乗せる馬ではない。

その意味で、いさおしの主はギリオンを敬愛していたし、その命を守る為に出来うる限りの事をするつもりなのは

目を見ればアウカンには理解できた。



「任せたぞ」


馬に頷き掛けると、アウカンは剣を構えなおした。


ギリオンの額に紫色の炎で刻印された運命が、アウカンにははっきりと見えた。

この男は法と善なる大義の名の下に、地獄の門を潜って奈落に至る道を歩む定めにあるのだ。

未だ見ぬ英雄達がその後ろに続き、天上と地獄の間に巻き起こる最後の戦いの場で

自らに割り振られた役割を果たすべき時が来るのを待っているのだ。


この男こそは、堕落と混沌の軍勢に向けて放たれた、戦の先触れを告げる法の矢に他ならなかった。


イードに、マハーバラに、そしてアウカンに課せられた役目があるように

ギリオンにも多元宇宙に続く法と混沌の、善と悪の戦いの中で果たすべき役割がある。

そしてその時はまだ先なのだった。

ギリオンは仲間の導きでラッパンアスクを見出し、そこに巣食う邪悪を目の当たりにした。

ここからが始まりなのだ。

今ここでこの男を殺させてはいけない。

この男が生きてミトリックの大門を潜り、自らが見たものを既知世界の住人達に知らせることによって

地獄の聖堂の復活で乱れ、絡まってしまった因果の時流は再び動き出すのだ。



だが


覚悟を決め、殿を務めようとするアウカンを前にして、いさおしの主はいつまでも走り出そうとはしなかった。

「いったいどうしたのだ?」

訝るアウカンの目に、困惑したように立ち尽くすいさおしの主の手綱を、震えるギリオンの手が絞っているのが見えた。



「何をしているギリオン!! 状況は分かっている筈だ!! 自らに課せられた運命も、お前は知っているはずだぞ!!」


叫ぶアウカンを、身動きが取れぬ身体で、黄金の兜の面頬の奥から、ギリオンは見ていた。

イードが最後に浮かべた静かな表情を。

マハーバラの穏やかな微笑に彩られた最後も。

麻痺して動かすことのできぬ身体に捕らわれたまま、見ているしかなかった。

今、最後の任を果たそうとするアウカンが自らに求めていることもわかっていた。

だが、まだこの場を逃れる訳には行かなかった。

やっておかねばならないことが、まだあった。



翠石の呪いはその身に染み渡り、指を一本動かそうとするだけで凄まじい激痛が全身を貫いた。

だが、こんな痛みはなんでもなかった。

超人的な精神力でギリオンは自らの身体を動かす。

苦痛の牢獄の壁に爪を立て、束の間の自由に向けて血を吐く様な登攀を続ける。

やがて

ついにその口が開き、痺れる舌をもつれさせながら、ギリオンは言葉を取り戻した。


「アウカン…」


「どうしたギリオン!?何をしている!」

「アウカン…言ってくれ、あの言葉を…」

「言葉だと!?言葉などこの場では役にはたたぬ!まじないなどエルフどもに任せておけ!今はいさおしの主の足と、剣の鋼だけが
俺達の役に立ってくれる!」

「駄目だ!あの言葉をお前の口から聞かない限り、私はどこにも行くことが出来ぬ…!」

恐らくは激痛に身を苛まれているであろう仮面の奥から、喘ぐ様に言葉を紡ぐギリオンにただならぬ物を感じた。

「それはなんだ?」

緑の怪物に油断なく対峙しながら、巨漢は聖騎士に問うた。

「その必要な言葉とは一体何なのだ?」


聖騎士の応えはシンプルであった。


「あの…ですね…」


「おう」


「『逃げろ!』って言ってください…」


「え?」

「ほら、僕アライメントがローフル/グッドじゃないですか」

「うん」

「おまけにパラディンじゃないですか」

「うん、そのかっこ見ればわかるよ」

「だからなんていうか、逃げろ!って言われないのにやられる味方放置して一人馬で逃走とか、まずいんすよ。服務規程とかあるし

 イメージ最悪っていうか…」


生き方と世間体の問題であった。

大問題であった。

パラディンたるもの敵を前にして逃げ帰るなど許されぬ。

ましてや叙情的、かつ英雄的な最後を遂げる仲間を放置して一人エスケープとか、ありえなさすぎであった。

事が露見の暁にはパラディン能力を剥奪されるかも知れぬ。

そんな事になったらギリオンなどちょっとCHAが高いだけの雰囲気ファイターである。

いや特技の数が少ないぶん、ファイターにすら劣る身の上に落ちぶれるのだ。

たとえミトリックに生還出来たとしても

「当方LV5の雰囲気ファイター、ラッパンアスクに狩りに行きませんかー?Tell待ってます^^」

なんてShoutに答えてくれる冒険者など存在するはずがない。

仮に応えるものがあったとしても、どうせ非モテクラスだ。

タンクになるにはACがたりず、ヒーラーになるには呪文スロットがない。そんな哀しみに満ち溢れた面子が街路の片隅に何時間も佇

「ヒーラーさん見つからないですねー^^;」なんて空虚な言葉を交わしつつ

刻一刻と冷めていくその場の空気にいたたまれなくなりながら立ち竦む末路がありありと見える。

ファッション、乗騎、住居、戦闘時のマニューバ。

全てにハイクラスのライフスタイルを要求するエターナルセレブたるギリオンにとって、それは耐え難い屈辱であった。


「自分から言いたくなかったんで黙ってたんですけど、自発的に逃亡するわけにはいかないですし…あと貴方そろそろ死にそうな雰

囲気を全身から放射してるんで…その…口が効けなくなる前に一言だけでも…」


ギリオンが一言口を利くたびに宇宙から善きものが一つ喪われる勢いであった。

イードとマハーバラも草葉の陰で泣いていた。

いさおしの主は騎士を振り落として家に帰るべきか割と真剣に考慮を始めた。

グリーンエメラルドガーゴイル達は無表情に人間喜劇を見つめ

DMは哀れみの眼差しを、泥にまみれた聖騎士にちらりと向けた。



「…わかった。俺が悪かった。察してやるべきだったな……」

アウカンは言った。

巨大な男であった。

強い男であった。

そして優しい男であった。


「今から言うからちゃんと聞けよ。な?」


その強く優しい眼差しをギリオンに向けながらアウカンは言った。


「逃げろ!!!お前だけでも生き延びるんだ!ラッパンアスクを封印する為に…オルクスを倒すために!!!」

満身創痍になったアウカンの、血に滑る手に砕けんばかりに強く握り締められたその剣は、高く、今まで見たこともないほどに高く

振り上げられた。

残された最後の力の全てが、今アウカンの手の中にあった。

既にその目は霞み、自らを取り巻く翠石で出来た死神達の姿もよく見えてはいない。

だが、未だその身体は力を失ってはいなかった。

マハーバラが最後の力を振り絞って灯した炎が、その身の内に燃えていた。


山だ。


吹き荒ぶ吹雪のヴェールに隠されて、頭上に雪の冠を頂いた誇り高き山を、ギリオンはその姿に見た。


「バカな!そんな事が出来るものか!私も最後まで戦う!!」

兜の黄金仮面の奥から、鏡の様なまびさしの向こうから、ギリオンが叫ぶ。悲痛な声であった。

恐らく仮面に隠されたその顔には満面の笑みが浮かんでいる。

「駄目だ!ここで全滅したら誰がラッパンアスクの所在をやってくる英雄達に告げるのだ?誰がこの怪物たちの危険を彼らに警告し

てやれるのだ!?」

「しかし私には死に瀕した味方を見捨てることなど…仲間の命を奪った怪物に背を向けて逃げるなどできぬ…!!!」

言いつのるギリオンに向かってアウカンは目を剥くとどすの聞いた声で叫んだ。


「おめそれ、ぜってーだべな!?」

「え?」

「そっこまっでいうからには、最後まで戦えよ?」

「え?」

「覚悟できてんだべ?な?覚悟」

「いやそのえっと、ちょっとそれ的なものは…」

「できねえんだろ?」

「あー、その…なんていうか…そういう方向で…」

「出来もしねえ事言うな。な?」

「すみません…」

一瞬、何か変なチャンネルが混線した。

「行け!! 明日を切り開け!! そしていつの日かエリュシオンでまた会おう!!」

いさおしの主が意を決したように走り始めた。

その足並みは力強い意志に突き動かされ、決して止まることはなかった。


「アウカン!」


走り出したいさおしの主の背で、ギリオンは友の名を呼んだ。

最早再会の適うことのない友であった。

自らの為に、その命を差し出してくれた男であった。

断ちがたい絆を感じた。

託された使命の重さが、自らの双肩に食い込むのを感じた。

蹄は荒地を蹴りたて、たてがみは風を孕んで流れた。


最後に振り返った時、剣を振りかざすアウカンに向けて、緑色の怪物たちが一斉に飛び掛る光景がギリオンの網膜に焼きついた。


翠玉を鋼鉄の刃が砕く戦いの物音が、後方から長く響いていた。




夜の帳がシーコーストロードに降りていた。


最早戦いの音は聞こえぬ。

ただ風を切って走る蹄の音、いさおしの主の荒く規則正しい息遣い、灰色の渚に打ち寄せる波の音だけが

ギリオンの周りにあった。


いさおしの主の背で、ギリオンは敗北と屈辱にまみれ、怒りと嘆きの入り混じった静かな慟哭を上げていた。


やがて、月が昇った。


銀色の真円を描く、巨大な満月であった。


自らの頬を、熱い涙が止め処もなく流れるのを感じながら、ギリオンはその月を見た。


空の高い所から、甲高い声が響いた。


見事な羽を持つ一羽の大鷲が飛んでいた。


言葉もなくそれを見上げるギリオンの頭上を、大鷲はゆっくりと回ると、別れを告げるかのように一声なき


力強く羽ばたくと、月に向けて高く、高く昇っていった。


ギリオンはその姿が小さな黒い点になり、見えなくなってしまうまでそれを見つめ続けていた。


「アウカン…逝ったのか……」


口に出してしまうとそれが真実なのがわかった。

あの大きな男はもういないのだ。

あの優しい男は自らの運命に従い、最後の最後まで誇り高く頭をもたげたまま戦いに斃れたのだ。

動かし難い現実を突きつけられたギリオンの目から、再び涙が流れた。

熱く、苦い涙であった。

ギリオンは声を上げて泣いた。



強く、心やさしき巨漢、驚くべき膂力と繊細な知略を併せ持った山の様な男。
ゴライアスのファイター、アウカン・ヴィメイラガは、こうして自らの使命を果たし、彼の魂はセレスティアの高峰に向けて旅に出た。




涙は後から後から溢れ、ギリオンは自らの涙で溢れる兜の中で溺れそうになった。

壮麗な細工で飾り立てられた兜をギリオンは毟り取る様にして脱ぐと、走る馬の背から砂浜に投げ捨てた。

兜はまびさしを下にして砂浜に半ばまで埋まり、月の光を浴びて静かに煌いた。

白い月の下、身も世もなく嘆く騎士を乗せた黒馬が一頭、砂を蹴りたてながら北に向かって走り去っていった。