小池一夫原作 神江里見作 弐十手物語
- 作者: 神江里見,小池一夫
- 出版社/メーカー: グループ・ゼロ
- 発売日: 2013/12/20
- メディア: Kindle版
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kindle unlimitedで定額読み放題になっていたので何気なく読み始めたら止まらなくなって全部読んでしまった。
連載開始時は主人公が別人だったり、明らかに二人の十手持ちを主人公にしたバディ物のつもりだった様に見えるが
途中で出て来た菊池鶴次郎のエピソードが決まり過ぎたせいか、はたまた予定通りの結果か主人公が交代する。(以後、前主人公は徐々にフェードアウトし、その行方はようとして知れぬ。
作品の前後は不明だが、他の小池劇画の展開と非常に似たシチュエーションが何度も現れる。何しろ25年連載、単行本にして110巻。
鶴次郎が満足のいく最後を遂げさせるために心を砕いた死刑囚の首をはねる男はどうみても首切り朝だし、囚人の首が落ちて終わるこのエピソードの展開もほぼ『首切り朝』だ
一人身の同心が悶々と過ごすうちに女盗賊と心を通じて夫婦になる展開も、やっぱり『首切り朝』にある。(河童の刺青がある女白波(おんなしらなみ)が出るところも共通している)
その女盗賊がいきなりつかまって磔獄門になり、主人公の心が壊れる展開は『春が来た』だ。
エピソード毎に増え続けるヒロインを次々と恋人にしていったら最終的に十指に余る女性と同居する羽目になるのは『オークションハウス』
江戸時代という時代設定故に、決して逆らう事の出来ぬ封建主義が最後の最後に立ちはだかるのは『子連れ狼』だ。
(たぶん『御用牙』や『乾いて候』もあると思うんだけど読んでないのでその辺は曖昧にしてごまかします)
だが、主人公のつるじろうさんは最終的に他の作品の主人公が陥った絶望や死を全部回避して成長し続ける。
鶴次郎が最初に心を通じた女白波は彼の目の前で愛を叫びながら無残な最期を遂げ、小賢しい新米同心だった鶴次郎は打ちのめされるが
鶴次郎は彼女の面影を心に抱き、すごい勢いでレベルアップする。
罪を憎んで人を憎まず、自らの命を江戸の人々を不幸から救うことに捧げ、どんな危険な立場に追い込まれても「よし、死のう」とばかりにアクセルを踏み込む。
隆慶一郎作品の”いくさびと”と同質の強さがある。
話の展開は基本的にいつも同じだ。
事件が起き、それにかかわる悲しい女達が鶴次郎の前に現れ、敵対したり救いを求めたりする。
鶴次郎は「よし、私の命を上げよう」と全力で相手を救おうとするのでヒロインは全員べたぼれになる。
『オークションハウス』では同じパターンで主人公リュウ・ソーゲンに惚れたヒロインが全員同居し、お互いに煮えたぎる嫉妬心を抑えられないので
月に一回、全力で喧嘩していい日を設けてフラストレーションを発散していた。
だが、流石のリュウ・ソーゲンも辟易したのか女達全員を集めて汽車で乱痴気騒ぎを繰り広げた挙句「時には全てを捨てて旅に出たいこともある…」
とカッコよく言い残して女達の乗った列車を切り離し、一人湖に突っ込んで(正確には違うのだがややこしいので省く)自殺を試みたりした。
ところが鶴次郎はあまりにも凄まじい人格者であるため、彼に惚れた女達は喧嘩をしない。
「お互いの為に命を使い、死んでも共にあると決めた仲」なのでひたすら仲が良く献身的だ。
5秒目を離すとすぐ新しいヒロインをひっかける鶴次郎を怒るどころか、「それが旦那様…」とナンパの手伝いをしたりする。
初期の頃は救ったヒロインは大抵話の最後に幸せを感じながら死んでいた。
あまりに連続でヒロインが死ぬので鶴次郎についたあだ名が”死神”である。
「わたしは本当に死神なのかもしれない……」と泣きながら”凍て鶴”のポーズでどうしようもない悲しみを表現するのがお決まりであった。
なにしろ話の展開上クローズアップされたらほぼ死ぬ。
登場エピソードを生き延びても油断はできない。
死ぬ前に別れたらそれっきり行方知れずになってなんとなく死んでるっぽい扱いから、死んだことにされちゃったパターン。
島送りになった先で鶴次郎を待ち続けるモードに入り、これなら安全だろうと思ってたら再度島が舞台になった時には病死していたパターン。
忘れられた頃に再登場してなんとなく巻き添えで殺されるパターンもあった。
流石にいくら何でも生き残らなさすぎだと思ったのか、いつの頃からか一定数のヒロインが生き残り、時折数人が死んで新しいヒロインが補充されるスタイルになっていく。
ここにきて
”出てくると絵面が面白い”(3人姉妹の放火魔で背中に不動明王の刺青がある)
”有能である”(幕府隠密のくノ一)
”権力がある”(吉原の元締め)
”単純に戦闘能力が高い”(作中最強クラスの武芸者)等の特徴を持つヒロイン達はある程度長生きをするようになったが
小池劇画の特徴は安定した人間関係をぶち壊して怒涛のクライマックスに流れ込む情け容赦のなさである。
敵が巨悪であるパターンで権力タイプのヒロインは死に
パワーレベルがどんどん上がってきて柳生烈堂の孫みたいなヒロインが参入した時点で武芸者ヒロインも枠被りから死亡した。
誰が死んで誰が生き残るか全くわからない地獄のヒロインレースも見どころの一つである。
なにしろ油断してるとさくっと心臓に短刀が刺さって死ぬので、1ページ抜かしただけで人ひとり消えることがあるのだ。
さて、そんなヒロイン達の屍山血河を築きながら歩き続けた結果、臆病でスケベなへっぽこ同心は無敵の聖人へと成長する。
ヒロインをたぶらかす度に追加される権力!
彼の女達への共感や献身に、感動した吉原の忘八やくざものは鶴次郎の為には命も投げ出すようになり
幕府の隠密も頭領が鶴次郎の妻なので彼が「やりなさい」って呟いただけで陰から『Wizardry』のマスターニンジャみたいなのがシュバババッ!って現れる。
江戸市中の市民や夜鷹達も勿論味方なので、事一朝事あらば大名屋敷に火のついた松明をボンボコ投げ込むくらい朝飯前だ。
8、9代将軍も鶴次郎を最大の親友として扱い
水戸黄門とも”つるさん”、親分と呼び合う仲。
果てはどう見ても柳生烈堂(子連れ狼のラスボスだ!)みたいな爺も鶴次郎に「柳生は任せた…」とか呟いて腹を切っちゃったので
100巻過ぎ辺りになると鶴次郎が「やりなさい」って呟いただけで御庭番と虚無僧姿の柳生暗殺剣士が1ダースくらい敵を取り囲む。
将軍以外男子禁制、立ち入ったら死罪は免れぬ大奥にフリーパスで入り込んで普通にでてきたりする。時代劇なのに!
こんなのに絡まなきゃいけない悪党の方が不運だ。
勿論、楽にここまで来たわけではない。
十手に全てをささげた鶴次郎は、仲間の奉行や同心、果ては幕府の大物や次期将軍が腐敗して汚職をしたり辻斬りをしたりする現実を前に何度も十手を捨てようとする。
ここで実際に捨てちゃって死に場所を探す無敵モードに入ったのが『春が来た』の鯉太郎兵衛であった。
だが、鶴次郎さんの人間的器は異様なまでにでかいので、絶望的な状況下でも命を捨てて正論を吐きまくり、自分を殺しに来た隠密を女房にしちゃったりする。
恐れ多くも八代目征夷将軍のあたまを2、3発どついて説教したりするので絶対的な身分制度も木っ端微塵だ。
口を利いたら魅了される、魔物の如き人たらしなのだ。
さらに特筆すべきは25年の連載中に次々と死んでいったヒロイン達の扱いである。
連載中盤頃までは鶴次郎の言う「私には死んでいった妻たちが憑いています…」というのは
ハードボイルド的な意味での決め台詞であった。
だが、陰陽師や天竺の怨霊と戦ったりする超自然要素がしれっと登場するようになり、運を天に任せるしかない状況では
死んだ妻たちが助けてくれたかの如き演出が用いられるようになる。
つまり偶然矢がそれたり、毒の入っていない方の酒を選んだり、命を懸けたサイコロ博打にあっさり勝利したりだ。
その演出とセリフが多用された結果、70巻ごろから鶴次郎を見た坊主や山伏がガクガク震えて畏怖の言葉を吐く演出が現れる。
「なんという数の霊を背負っておるのだ……」
やがて水面に映った鶴次郎の周囲に異形の影がうごめく様になり
彼の背後で泣きわめいて渦を巻く人の姿を失った妻達が描写されるようになった。
この辺りの絵面はホントにかっこいい。
自分で殺しておいて鶴次郎に殺人の罪を擦り付けようとした同僚に対して
「あなた、影が4つありますよ。殺した人の影がついています」と言い放つ鶴次郎のパワーレベルは夢幻紳士に匹敵する超人度だ。
そして90巻を超えたあたりでついに死んだ妻たちが実体化を始める。
鶴次郎に放たれた矢を跳ね返し、海に落ちればこれを引き上げ、雷をそらし、呪詛を跳ね返す。
ついには大奥の女中達に憑依して鶴次郎を匿うまでになり、ここに至って
隠密と柳生と忘八を配下にしたうえ死霊を自在に操る
ネクロマンサー南町奉行所定廻り同心、という『天下繚乱』みたいな生命体が完成する。
生死を超越した彼岸に立ち、彼の言葉を無視した悪党は大抵非業の最期を遂げる。
最早くだんか、ヒトコトヌシかってレベルの神話存在に足を突っ込んでいる。
「生まれてきた以上は使命があるから、そのために生かされている」と常々口にする鶴次郎は自らを支える神話的ルールに意識的であるように見える。
ジョーゼフ・キャンベル先生の『千の顔を持つ英雄』からパクって言えば、召命に対して抵抗せず、全てを差し出すが故に全てを得る英雄。
物語の大波に逆らわず、モチベーションやよって立つ設定の喪失すら恐れぬが故に波を乗りこなすことができる、そういう類のマンだ。
第一部(110巻やってやっと、第一部完なのだ!)終盤の鶴次郎は他者に対して「悔い改めなければ死ぬ」「助かりたければ捨てるしかない」などと預言者の如き言動を見せており、キャラクターを立て続けた結果
あらゆる物語を制すまでになった凄みがある。
そういえば『子連れ狼』の終盤に、自分の愛人を次々と刺客に放ったり、盾にしたりで使い捨てにする悪役公儀御口唇役、阿部頼母という怪人が出てきたけど
鶴次郎は正邪反転した阿部頼母っぽくもある。
なにかっていうとすぐ愛人と一緒に服脱ぎ始めるところとか。
ここまでストーリーの話ばっかりしてきたけど、絵の話もしたい。
なにしろこの漫画は絵が凄い。
子連れ狼を読んだとき、その絵面のカッコよさに「ハァー、こりゃ流石にフランク・ミラーがリスペクトするだけの事はあるぜ小島剛夕せンせい……!」って思ってたけど
神江里見先生の絵も無茶苦茶かっこいい。
特に隠密と柳生が登場するシーンはカッコよすぎて(これ、絶対パクろう)って握り拳を作るくらいかっこいい。
時と共に冴えわたる筆致は流れるような線を描き、踊るが如き画面が展開する。
そして僕は何かを思い出す。
ふ……フランク・ミラーの絵そっくりだ……
髪も眉もそり落としたくノ一、襲い来る爬虫類の様な人斬り、とどめは”暗所に目を慣らしておくための木眼鏡”を着用した風魔忍軍の登場である。
僕はこの人たちを見たことがある。
『バットマン:ダークナイトリターンズ』と『シンシティ』で……!!
この辺、どういう影響と因果関係なのか非常に興味があるわね。
神江里見先生の絵がアメコミじみてくる時期は単行本の80巻辺りから。
1978年から2003年まで続いていた連載なので単純計算しても90年代末ごろ。
フランク・ミラーは『子連れ狼』リスペクトを公言しているから、同じ作者の最長作品である『弐十手物語』を読んでいないはずがない。
だが、『ダークナイトリターンズ』は86年の作品でその続編『ダークナイト・ストライクス・アゲイン』は2001年。
たぶん、何らかの交流があったのではないかと勝手に想像するけど実際のところはどうだったのかしらね。
90巻超えたあたりの面白さに悶絶して海老反りになったのでついつい興奮して長文書いちゃったわ。